「らびーず倶楽部」 歴史探求&食いだおれ部
【歴史探求&食いだおれ部】26/07/05 桃太郎物語のルーツ「吉備津神社」を歩く
今回のツアー、最後に訪れたのは「吉備津神社」です。
吉備津神社(きびつじんじゃ)は、岡山県岡山市北区吉備津にある神社で、式内社(名神大社)、備中国一宮。
旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社です。
『延喜式』では「吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)」と所載されています。2025年現在は「吉備津神社」が正式名です。
岡山市西部、備前国と備中国の境の吉備の中山の北西麓に北面して鎮座しています。
吉備の中山は古来神体山とされ、北東麓には備前国一宮・吉備津彦神社が鎮座します。
本来は吉備国の総鎮守でしたが、吉備国の三国への分割により備中国の一宮とされ、
分霊が備前国・備後国の一宮(備前:吉備津彦神社、備後:吉備津神社)となったとされています。
このことから備中の吉備津神社は「吉備総鎮守」「三備一宮」を名乗っています。
足利義満造営とされる本殿は、全国唯一の比翼入母屋造(吉備津造)で、拝殿とともに国宝に指定されています。
また社殿3棟が国の重要文化財に指定されています。釜の鳴る音で吉凶を占う鳴釜神事でも有名です。
本殿と拝殿(国宝)―現存する本殿・拝殿は、室町時代の明徳元年(1390年)、
後光厳天皇の命を受けた室町幕府3代将軍の足利義満が造営を開始し、応永32年(1425年)に遷座しました。
比翼入母屋造の本殿の手前に切妻造、平入りの拝殿が接続しています。
比翼入母屋造とは、入母屋造の屋根を前後に2つ並べた屋根形式で、「吉備津造」ともいいます。
本殿の大きさは、出雲大社本殿、八坂神社本殿に匹敵するもので、随所に仏教建築の影響がみられます。
地面より一段高く、漆喰塗の土壇(亀腹)の上に建ち、平面は桁行正面五間、背面七間、梁間八間で、屋根は檜皮葺です。
内部は中央に閉鎖的な内々陣とその手前の内陣があり、その周囲を一段低い中陣とし、
中陣の手前はさらに一段低い朱の壇(あけのだん)とし、これらの周囲にさらに低い外陣が一周しています。
このように、外側から内側へ向けて徐々に床高を高くする特異な構造です。
壁面上半には神社には珍しい連子窓をめぐらし、挿肘木、皿斗、虹梁の形状など、神社本殿に大仏様(だいぶつよう)を応用した
唯一の例とされています。
拝殿は本殿と同時に造営され、桁行(側面)三間、梁間(正面)一間妻入りで、正面は切妻造・背面は本殿に接続。
正面と側面には裳階(もこし)を設け、屋根は本殿と同じく檜皮葺ですが、裳階は本瓦葺きとなっています。
これら本殿・拝殿は、合わせて1棟として国宝に指定されています。
御釜殿―江戸時代、慶長11年(1606年)の鉱山師・安原知種による再建されました。
単層入母屋造の平入で、本瓦葺。南北に伸びた長方形で、北二間に釜が置かれています。
金曜日を除く毎日、特殊神事の「鳴釜神事」が行われる。国の重要文化財に指定されています。
「ヴォーン、ヴォーン」とまるで鬼がうなっているように聞こえる釜の音。
御釜殿では、この音で願いが叶うかを占う「鳴釜神事」が執り行われています。
回廊―戦国時代、天正年間(1573年 - 1591年)の造営とされ、総延長398m。岡山県指定文化財に指定されています。
桃太郎の原型
古くから語り継がれてきた吉備津彦命による温羅退治の伝説は後世に引き継がれ、昔話の桃太郎による鬼退治の原型となったとされています。
この昔話は、川を流れてきた大きな桃から生まれた桃太郎が、村を荒らし悪さをする鬼と戦うために、
道中で家来となった犬、猿、雉とともに鬼を退治する物語です。
桃太郎の名の由来となった桃は、古来より魔よけの道具として使われました。
吉備の地は、晴天の多い温暖な気候に恵まれ、古くから桃が栽培されてきました。
桃太郎が犬、猿、雉を従えるために与えた「きびだんご」の原料の黍は、吉備の地名に由来するともいわれ、
今では岡山土産の代表となっています。
また、桃太郎の家来の犬、猿、雉は、「犬飼」の名前などで、今もこの地に残っています。
このような岡山の気候、風土、歴史と温羅退治の伝説とが密接に結びつき、桃太郎はこの地で生まれました。
遠く瀬戸内海まで見渡せる鬼城山の絶壁から眼下を望めば、古くから護り伝えられた巨大古墳などの多様な遺産と、
ほかでは見ることのできない吉備津彦命と温羅の戦いの世界が広がり、吉備の地を訪れる人々を神秘的な物語へと誘ってくれます。
