「らびーず倶楽部」 歴史探求&食いだおれ部
【歴史探求&食いだおれ部】5/26離宮建築の最高峰と日本庭園美の集大成「桂離宮」を歩く
5月26日(日)、阪急京都線桂駅改札前に午前9時15分集合。離宮建築の最高峰と日本庭園美の集大成「桂離宮」に行ってきました。「桂離宮」は、京都市西京区にある庭園。17世紀はじめに「八条宮家」初代の「智仁親王」が、平安時代の貴族の暮らしを再現する庭園をこの地に築いたことが始まりです。その後、2度の改造を経て現在のような「池泉回遊式」(池の周囲を散策しながら様々な景観を楽しむ)の庭園が誕生しました。
桂離宮と呼ばれるようになったのは、1881年(明治14年)に八条宮家の断絶に伴って宮内省(現在の宮内庁)に移管されたあとのこと。現在は予約をすれば誰でも入園可能です。
「離宮」とは、皇居以外に設けられた皇室の宮殿の総称です。この場所に離宮を造営した智仁親王は、1579年(天正7年)に106代「正親町天皇」の第一皇子である「誠仁親王」の第6子として生まれました。幼い頃から利発で、8歳のときに「豊臣秀吉」の養子に。しかし、豊臣秀吉に実子「鶴松」が誕生したために縁組を解消され、新たに創設された八条宮家の初代になりました。
しかし元・豊臣家の養子という経歴が次の天下人であった「徳川家康」から敬遠され、天皇になることはありませんでした。その代わり、智仁親王はひたすら古典文学の研究に没頭。当時としては屈指の文化人としての人生を歩み続けます。そんな智仁親王が、その教養と情熱を注ぎ込んで完成させたのが桂離宮でした。
記録によれば、1625年(寛永2年)に「南禅寺」の「金地院崇伝」(江戸幕府の成立に貢献した禅僧)が智仁親王の別荘に招かれたとき、すでに「古書院」や「月波楼」が完成していたことが分かっています。
智仁親王の没後、別荘は荒れ果ててしまいましたが、第2代当主の「智忠親王」が再び手を入れて整備しました。このとき「中書院」や「新御殿」などが完成したとされます。そして1663年(寛文3年)に3代「穏仁親王」が庭や茶屋を整備し、現在の離宮の形ができあがりました。
八条宮家は1881年(明治14年)に断絶となり、離宮は宮内省が管理することになり、江戸時代初期の庭園の姿を今に伝えています。
約70,000㎡の敷地の内部は竹藪や雑木林で囲まれ、中央の庭には大小3つの「中島」を持つ池が設けられています。池の周囲には回遊路が巡らされ、招かれた人は散策をしながら風景を楽しみました。例えば、「御幸門」から続く「御幸道」を進めば、「蘇鉄山」などの「築山」(人工的に造った小さな山)や「外腰掛」などがあります。
それらを通り過ぎると「岬灯篭」のある「州浜」と「天橋立」が現れ、「石橋」の向こうには「松琴亭」が見えます。他にも多くの灯篭や飛び石、蹲踞(つくばい:茶室に入る前に手を清めた石の手水鉢)、四季折々の樹木が次々と現れ、訪れる人を飽きさせません。ここに、智仁親王の作庭の巧みさがあります。
小路を進むとやがて見えてくるのが、「数寄屋」(母屋とは別に建てられた小規模な茶室)風の書院群、古書院・中書院・新御殿。最初に完成した古書院には板敷きの「広縁」(室町時代に登場した、幅の広い縁側)があり、その前面には、竹を敷き詰めた「月見台」が設けられています。
次の中書院は田の字形の4室からなり、「襖絵」は「狩野探幽」(狩野派を代表する、江戸時代初期の絵師)の作。2代当主の智忠親王はこの中書院を居室として使用していました。
最後の新御殿は「後水尾上皇」の「行幸」(天皇・上皇の外出)のために造られた御殿。黒檀や紫檀などの唐木を惜しみなく使用した床の間は「桂棚」と呼ばれ、天下の三名棚に数えられます。
光源氏の月見の物語でも知られるように、桂離宮周辺は古くから月見の名所でした。そのため、桂離宮の建築物にも、月を愛でるための仕掛けが随所に施されています。例えば前述の古書院の月見台には屋根がなく、さらに月がよく見えるように対岸の築山は低く、池は手前を深く切り込むように造営されました。こうして煌々と輝く月が水面に映る姿を楽しんだのです。また月見台が面する方角は、当時の中秋の名月がのぼってくる方角だと言われます。
もうひとつ、月を愛でるために造られたのが、古書院のかたわらに建てられた小ぶりな茶室「月波楼」です。「白楽天」(8~9世紀の中国の漢詩人)の詩句「月點波心一顆珠」(月は湖水に影を落とす。1粒の真珠のように)から名づけられたこの茶室は、室内から池越しの月を眺めることができました。壁に飾られた「歌月」の額は、「霊元上皇」の「宸筆」(天皇・上皇直筆の書)と伝えられます。参加した皆さんは、桂離宮の完璧なすばらしさに、感動されていました。見学の後、桂離宮のすぐ南、明治創業の老舗和菓子店「中村軒」でお土産を買い、ミシュラン1つ星獲得の老舗「隆平そば」で美味しい十割そばをいただきました。中央支部から3名、北支部から3名、なにわ南支部から2名、大阪南支部・大阪東支部から各1名、計10名の方に参加いただきました。