「らびーず倶楽部」 歴史探求&食いだおれ部

【歴史探求&食いだおれ部】10/29 日本最古の薬草採取地・城下町の重伝建地区「宇陀松山」を歩く

令和7年10月29日(水)午前9時 近鉄大阪線榛原駅改札口集合

日本最古の薬草採取地・城下町の重伝建地区「宇陀松山」を巡って来ました。

2006年に重要伝統的建造物群保存地区に選定された宇陀松山地区は、

かつての大宇陀町である奈良県宇陀市の南西部に位置している、長い歴史を持った町です。

周囲を吉野山地、竜門山地、大和高原などの山々に囲まれた辺境の地ではありましたが、

京都や奈良と伊勢をつなぐ交通の要衝だったことから、古くから中央の影響を受けながら発達してきました。

日本の歴史に宇陀が登場するのはかなり早く、飛鳥時代まで遡ることになります。

宇陀地域の山々は鳥獣が豊富だったために絶好の狩猟場として見いだされ、「阿騎野」という呼び名で日本書紀に登場しています。

また柿本人麻呂が軽皇子(文武天皇)の狩猟の情景を詠んだ歌も阿騎野でのことと知られています。

交通の要衝となっていた宇陀地域が、町として形を成し始めるのは戦国時代、秋山庄の荘官から国人領主に成長した秋山氏が城を築き、

その城下町として山腹に栄えたのが現在の松山の起源であると言われています。

その後、秋山氏は豊臣氏に追放され、秋山城には秀吉の弟、秀長の家臣が入り、

この頃に城の大規模改修と城下町の拡大整備が行われ、現在の骨格が整えられました。

この時に阿貴町から松山町に名前が変えられたと考えられています。

元和元年に城は壊されましたが、宇陀松山藩となってからは長山に藩屋敷を置き、

織田信長の次男信雄(のぶかつ)が初代藩主となり代にわたって松山藩を治めました。

やがて近代になると郡役所や裁判所ができ、政治の中心地として栄えたほか、県内初の乗り合いバスが走り、

十数件の料理旅館がひしめいた時期があり、昭和の半ばまでその賑わいは続きました。それが宇陀松山の町並みです。

一時期に一気に繁栄した訳ではなく、色んな時代の影響を受けながら積み上がってきたために、

家毎にそれぞれ異なる時代の特徴を持ち、町並みを眺め歩くだけでも町家の向こうの「時代」を垣間見ることが出来ます。

ただの古い町並みではない「日本の家屋建築の博物館」と言えるのが、この宇陀松山なのです。

宇陀市と薬草の関係は飛鳥時代にまでさかのぼります。

日本書紀によると、推古天皇の即位19年の年(西暦611年)に、

宮中行事として薬狩りをうだの(現在の宇陀市大宇陀地域)で行ったと記録されています。

これは、日本最古の薬草採取(薬猟・くすりがり)の記録といわれており、宇陀の地が王権の猟場であったことを示しています。

宇陀市と薬草との関係は現代にまで受け継がれています。

宇陀地域からは、ロート製薬、ツムラ(旧津村順天堂)、アステラス製薬(旧藤沢薬品)など、

日本を代表する製薬企業の創設者が何人も輩出しました。

宇陀松山地区には、現存する日本最古の施設薬草園である「森野旧薬園」や、薬問屋であった細川家跡の「薬の館」も存在します。

ランチは古民家蕎麦屋まほろばの「まほろば膳」をいただきました。

中央支部から8名、大阪東支部から3名、なにわ南支部から4名、大阪南支部から3名、

計18名の方に参加いただき、楽しいまち歩きでした。