「らびーず倶楽部」 歴史探求&食いだおれ部

【歴史探求&食いだおれ部】05/21 王朝文化の美意識の到達点「修学院離宮」と 小さな桂離宮「曼殊院門跡」を歩く

令和7年5月21日(水)午前9時15分 叡山電鉄修学院駅改札集合。

王朝文化の美意識の到達点「修学院離宮」と 小さな桂離宮「曼殊院門跡」を巡って来ました。

京都市街の北東、比叡山西南麓の古来修学院と呼ばれた地に後水尾上皇により造営された山荘が修学院離宮です。

山腹の傾斜を活かして配置された上・中・下の三つの離宮からなり、それらを結ぶ松並木の道と田畑を含む総面積は545000㎡に及びます。

寛永六年に譲位された後水尾上皇は、仙洞御所の造営に続いて理想の山荘の実現に情熱を傾けられました。

試作の造営や候補地の吟味を経て明暦元年より修学院離宮の作事を始められ万治二年に完成披露が行われました。

御幸での一番の遊興は、上離宮にある浴龍池での舟遊びでした。

浴龍池は、水鏡に映る空と大地の結節点であり眼下に広がる洛中の街並みや遠景の山々をも庭園に取り込むような

圧巻のスケールで存在しています。

麓から見上げるとその石造の堰堤は大刈込みと呼ばれる広大な植込に包まれて周囲の田園風景と調和しており

修学院離宮の印象を特徴づけています。

次に向かったのは、洛北屈指の名刹、曼殊院門跡です。

門跡というのは、皇室一門の方々が住職であったことを意味し、勅使門の両側の塀に残る五本の白い筋はその格式を今に伝えるものです。

延暦年間、宗祖伝教大師最澄により、鎮護国家の道場として比叡の地に創建されたのが曼殊院のはじまりです。

その後、天暦年間 是算国師のとき北野天満宮が造営されると、是算国師が菅原家の出生であったことから、

初代別当職に補され、以後明治維新まで900年間曼殊院は北野別当職を歴任しました。

天仁年間に北野天満宮管理のため北山に別院を建立。その後御所内公家町に移転し、明暦二年(1656)になり、

桂離宮を創始された、八条宮智仁親王の第二皇子良尚法親王が入寺され、現在の地に堂宇を移し造営されたのが今日の曼殊院です。

良尚法親王は後陽成天皇の甥、後水尾天皇は従兄弟にあたります。

曼殊院造営については、桂離宮を完成させたといわれる兄智忠親王のアドバイスを受けて建設され、

桂離宮同様当時ヨーロッパで大流行した黄金分割が採用されています。

曼殊院の瀟洒で、軽快な大書院・小書院は「桂離宮の新御殿」や「西本願寺の黒書院」と並んで数奇屋風書院の代表的な遺構とされています。

お昼は修学院駅近くの「SPEAK EASY」で京都バーガーをいただきました。

中央支部から6名、大阪東支部から4名、なにわ南支部から2名、北支部が2名、計14名の方に参加いただき、楽しいまち歩きでした。